当会における監督資格について
映画の会は今年(4月開始)で創始4年目になる。初年度は第一回作品「真夜中の配達アプリ」の撮影・編集や、塾会の仕組み作りに暗中模索、2、3年目の20年〜21年はコロナ禍により(単なる一因であるが)断続的な会活動に止まる中、運営母体の映像事業にメンバーを参加させることで非公式ではあるが第二回、第三回作品の制作を行ってきた。今年は4年目にあたり、新年度を前に過去の反省を兼ねて目標を設定、本年度は主宰・松村と映画塾参加者で合わせて計4作品の撮影を行うことを目論んでいる。
とはいえ、実は「4」作品というのはあまり根拠のない数字である。頭の中で考えることと実際にやってみるのとでは随分勝手が違う。感覚に訴えその都度やり方を修正していく、それ自体が目的という面が大きい。実際、監督内定者は企画・脚本から始めているが、そもそも企画を書いた時点で映画が完成すると思い込んでいる者もいないことはない。未経験者ならほぼ全員にその傾向があるのではないか。ここに私と参加者との間で、監督資格に関する認識の相違がふつうにある。
- 参加者の認識 → 映画を楽に作らせてくれる機会。映画監督になる手伝いをしてくれる。
- 主宰の認識 → ある一定の条件を設け、それを満たした者のみに監督資格は与えられるため、条件を満たさなければいつでも資格は剥奪される。また、元来ほとんどの映画は完成せず、途中で頓挫するので、企画は始まった時点で映画が完成するとは見なしていない。企画・脚本、映像化準備、撮影準備、撮影と段階を経るごとに必要なリソースは増えていくが、それと作品完成の見込み、想定しうる作品の質を勘案し、得るものが少ないと断ずれば即そのプロジェクトは停止となる。
自主映画制作の原動力は監督である。プロデューサーでも取り巻きでもなく、監督が作るのをやめたらその時点でその映画は終わる。別に理由はなんだって良い。嫌になって投げ出す、単に歩みを止める、蒸発する、引っ越す、進路変更する、家族の都合、仕事の都合。ところで会の作品制作は短い期間のものでも約1年に及ぶ。なぜ長期に渡るのかといえば、それ自体に人材を見極めることのプロセスを含むからである。
一つの目標に向かって長期間、安定的に活動できるか
映画の会として、監督に求めるものは何か。活動開始時よりいくつかの経験則があり、現状では映画塾参加者のみに機会を与えているが、これですら確かなルールという訳ではない。無理やりキマリを作って内実がそれに支配されるなど本末転倒だからである。
十箇年目標達成への障害は極力避けること
この点、私は性善説を否定しているし、また前述の通り、百人映画脚本を描き始めたとしてそのうち何人が映画完成まで漕ぎ着けるのか、いや分母が少ないのでは? 百人程度なら一人も残らない可能性すらあるだろう、と考えているから、特別な機会を与えうる人材は結局選択的でなければならない。
人選において疑いようのない結論を導くのは、繰り返すが、「時間」である。口では立派なことを言っていても、時の経過とともに行動がともなうかどうかを観察すれば、その人物が当会で成そうとしていること、その意志、そしてその意志を貫徹しうる条件(多くはその者を取り巻く環境)が備わっているかを判断することができる。より正確に言い換えるなら、適性は本人の内的な事情によらず、放語漫言に寄らず、ただただ本人が時間の中でどのような行動をするのか観察することのみによって見分けられる。この点、適性は本人が外部でいかに優秀であろうが会でやらない以上は意味がない。このことはすなわち、会則に記している「会と参加者の関係について」であり、会にとっては、参加者を取り巻く環境は参加者そのものであり、その人の身を置く環境の影響による会活動への参加停止または休止は、同項の”会と参加者との正常な関係が維持されない可能性”を生じさせる一因であり、特に長期的・安定的な活動を要する監督資格については、これによりそれを失うことをよく理解しなければならない。
前述の通り、参加者が当会での歩みを止める理由は本人の心変わりだけに止まらない。結婚、転職、就職、進学、生活苦、健康悪化、累々。基、仕事や学業、私生活に次いでその優先順位のさらに下がる社会人サークル的な立ち位置であり、どれくらいの時間と労力を会活動に割くかどうかは各人の裁量に委ねられている。そして来るものはたまに拒むし問題のある輩を退会させることもままあるが、去る者を追う理由は皆無であり、そこらへんは時節が合う合わないに試されるもの、過去を顧みることもない。単に縁である。
会塾参加者でこの文を珍しく読んでいる人は、「十箇年目標達成への障害」とは何かを理解し対策すれば、塾会のどちらのグループに属していようが監督担当の機会は訪れるだろう。例えば、映画の会に対する直接的に有害な行為は全て嫌われる。これについては会則の禁止事項に具体例を書いているのでここでは述べないが、別の視点から有害とは何かを述べてみる。
例えば、会作品の監督を担うということは、制作を通して外部に対し会の名を名乗り続ける訳だから、取引で生じる債務も基本的には映画の会が一時肩代わりすることになる。ごくわかりやすい例としてはロケーションの場所代やその他、人・モノにかかる費用である。あるいは、制作中に事故が起こったら、最後まで責任を持って対処するのは誰か。監督自費の自主映画なら本来これらはすべて監督自身が行うものである。だが表面上は債務者は会になっている訳だ。だから、会として不安に思う点はこれに尽きる:
そいつは本当に自分の責任を全うするのか?
借金だけしこたま残して撮れ高だけ持ち去って音信不通、にならない保証は無論ない。ではこの不安を払拭するのは何かといえば、まずは信頼関係である。そして信頼関係など一日でできるものではなく、誰彼を信頼するしないの条件はわざわざ文にまとめて表しても逆に形式に縛らせるものでもない。以下の通り簡潔に書いておくべきであろう。
主宰・松村の信頼を得ている。
この点、無礼者は論外だと言える。単に相性が悪いだけの奴もうまく行かないであろう。無責任な輩は言語道断である。
前述のように、長期にわたり安定的かつ持続的な活動ができることであり、これは参加者の過去の会外における実績、または当会での活動実績を含め、先述の諸処を勘案しつつ判断するであろう。無論、映画制作は長期にわたるため、途中で不適格と見なせばその時点で制作中断となる。あくまで初動のための目安にすぎない。しかし、これよりもさらに重要な条件が、
主宰の定めたルールに従うこと
である。会のルールと言っても良いのだが、基本的に私がそのルールを決めているから、ここは直接的に私が定めたルールと書くことにした。断っておくが、別にタバコや酒を買ってこい、使ってパシらせると言っている訳ではない。それなら体育会系の高校・大学の先輩後輩関係の延長と言った方がまだ正確だろう。私はこの種のノリは嫌いではないが、特に下の立場の者の運命は上の立場の人間性に大きく左右されるため、相手が悪いと大きなストレスだろう。その点、当会ではいつでも退路は確保されており、参加者から種々の決定権を奪うこともない。とまあ、これはこれで原則であるのだが。余談で在るが、この原則は現実的にはうまく機能しないことがこの国では多いだろうと思わされる。個人の決定に委ねると言っても、この国の多くの人々にとって個人はないし(悪いことではない)、基本的に皆、自分で決めるのが苦手である。だから映画制作の現場でも、自分ではなく上の人に決めてもらうというケースが結構在る。例えば、演者のオーディションを広告して、監督の私は役者にどの役をやりたいか聞くのだが、相手は「お任せします」と話す。これは在る意味、環境に順応しようとしているという意味である。与えられた役割をこなすということなのであるから。一方で、揺るぎのないはずの個人が環境によって、自分の意思に関係なく抑圧される(勝手に自分のことを決められる的な)ということでもある。それというのも個人という概念を強く信じているからである。言っておくが、この個人という概念は西の受け売りである。お前はクリスチャンかと言いたい。私もよくこの言葉を用いるが、その意味には必ず感覚を含んでいる。西側の個人の概念にはそもそも感覚がない。なぜなら個は世界が誕生する前にすでにあったものだからである。世界もないのにどうやって感覚が存在しうるのか。この嘘つきと言いたい。
ルールに従うこと、これをより一般化すると「環境に順応すること」と言い換えることができる。映画塾の資格要件の一つでもある。現段階では映画塾のみに監督資格を与えているから、この資格要件がすなわち監督資格に類することがあるのは当然と言えよう。説明してみる。
自分たちが社会に出て(社会というのは会社でも学校でもサークルでも良い。以後環境と言い換える)、もしもその環境との間に「摩擦」が生じれば、対処する方法は以下の三つしかない。
自分と環境との間で摩擦がある時の対処法
- 自分を環境に合わせる
- 環境を自分に合わさせる
- その環境から退く
幼少から個人という西の概念を下手に植え込まれ、そんなものに一つも合致していない社会の渦に投げ込まれて右往左往する我々日本人の中でもさらに不器用な人々は、自分が変わるのは負けであるという信念を無意識に抱いている。乗じて、勝てない以上は負けであるという一見正しそうに思える論理に従い、三つ目の「その環境から退く」こともよしとしない。それを「逃げる」と言い換える文化からもよくわかる。ゆえに、勝つために必要なのは二番、環境を自分に合わさせることしかない。しかし、環境を自分の一存で都合の良いように変える(つまり自分ではない他の者を自分に合わさせる)ことなど、普通に考えて無理である。というか、その他大勢にとって紛れもない迷惑でしかない。その少数派が多数派をコントロール(つまり勝つ)するにはどうすれば良いかは、アマゾンで本でも買って調べれば良い。要は他者を同化させるのであり、方法はいろいろであるらしい(金、正義、暴力、ポリコレ、単純な数以外で優勢を狙う)。というか、これができる環境にある者は「不器用な人々」にはそもそも入らないであろう。だからこの話が含む範疇からは除外している。
そして、世の中うまくやっている奴はどんなやつかというと、まずは一番の「自分を環境に合わせる」ことができる者である。彼らの中には「優秀」と呼ばれる者がいるかと思えば、当たり障りなく周囲に流される者まで様々である。彼らは全て例外なく、まずは環境に従うことを知り、優秀な者はさらにその集団の中で自分を活かすことを実践している。映画の会は組織である。組織における人材を優劣を評価する際によく引き合いに出される「薩摩の教え」というものがある。上に行けば行くほどそいつは組織の中で優であり、下に行けば劣であるということになる。以下に引用する。
薩摩の教え
- 挑戦し成功した者
- 挑戦し失敗した者
- 挑戦しなかったが、する者を助けた者
- 何もしない者
- 何もせず批判する者
まともな選抜のある会社や学校などは、環境に合わせない人をそもそも組織内に入れないので、5番の批判する者は間違った場所に来てしまったのだろう。そういった者は組織にいる価値がなく、即座に対処すべきであるという考えには同意である。だが、これに6番目を足し、邪魔する者やら足を引っ張る者を付け加えるのには慎重である。批判だけしている者は何もしないからこそ悪なのであり、邪魔をしているとする者が何かしていたら必ずしも悪ではなかろう。この6番目はゆえに組織の中の一強勢力に従わない他勢を一様に悪だと見なさせる危険が伴う。足を引っ張るとの言い換えも同様で、むしろそれは5の批判だけするものを足を引っ張るものと形容すべきである。尚、人は時間や状況によって変わるから、昨日は1だったものが今日は5だったという展開もありうることを指摘しておこう。この場合、例えば一度挑戦し成功した者の処遇をどうするかについては、組織のリーダーシップの判断となる。
さて、お分かりかとは思うが、監督資格があるのはすなわち、自分を環境に合わせることができる人物(すなわちルールに従える)で、かつ、薩摩の教えの1番か2番を目指す者となる。要は挑戦する者、さらに正確には、挑戦し続ける者。そして、この話の流れからもわかるように、対処法の二番、環境、この場合は組織に対して自分に合わせてもらいたいとする者には、監督資格がないどころか、組織にいる資格すらない。この種の人々、すなわち「不器用な人々」について、より詳しく述べてみよう。
先述の通り、不器用な人々の多くは、西から輸入した見よう見まねの「個人」という概念と、この日本に空気のように漂う感覚的な人間という存在の間の矛盾を認めることができず、思考を停止せざるを得ない状況に陥っている。そもそも西の「個人」という概念が可笑しいのは、感覚など関係なしに、言い換えれば自分を取り巻く環境と全く無関係に自己があると断じていることにある。個人は環境に先んじて存在し、ゆえに環境に影響を受けないため不変であり、個人とそれを取り巻く環境の間に違和が生じた時に取りうる手段は、環境を個人の意思に合わせて変えること、となる。一方で、感覚的な人間という存在は、我々と環境が切っても切り離せないある種の同体であることを知っている。会参加者があらゆる事情で退会するのと同じように、活動継続か中断かを決めるのはまず絶対的に彼ら個人の一存ではない。ほとんどは環境の変化による。ここで質問だが、本当に個人は変わらないのか? 個性は永遠に同一か? 自分が生きてきた環境(時間と空間)の変化によって、自分もまた変わってきたことを忘れたのか? その人物があの日あの場所で宣言した聞こえの良い言葉にはなんの意味も見出さない。それに意味があったかどうかを見定めるには、1年後に同じかどうかこちらの感覚で確かめるだけである。このように、不器用な人々は、無意識のうちに「環境を自分に合わさせる」ことを欲している。環境より先に自己があると錯覚しているからである。そして当然環境は動かない。それほど強大な力が自分に備わっていればと夢想する。あるものは反発する。そしてこれこそ本末転倒である。自己とはその人を取り巻く環境を含む。そして我々人は空間を移動できるので、環境を変えることができる。その環境に身を置くということは、その環境に同化するということ、合わせるということ。その上で自分がどのように変わっていくかを楽しむということである。合わせるつもりがないのであれば、その環境にいる理由はない。すなわち、その環境から退くことが唯一の選択となる。それを否とするのは、個人という本質的に誤った概念と感覚的な自分という存在の矛盾を無視し、自分さえ良ければいいという利己に他ならない。すでに結論は述べているが、環境に合わせるつもりのない者に当会の居場所はない。自分に合わないとかいうのは多くの場合戯言であり、単に「環境が(会社が学校がみんなが)自分に合わせてくれないからいやだ」という意味である。
自分と環境との摩擦に関する対処法の三番「その環境から退く」ことについては、これは一番よりも組織にとっては劣るが、二番よりも遥かにマシである。そもそも組織にもたれるつもりもなければ、合わない場所に居座るつもりもないので、縁を切ったらはい終わりとなる。しかし、こういった人々は大きく三種類に分けることができる。それは、
- 自ら環境を創生する人
- どうしても適応できなかった人
- 単に環境に合わせるのがいやな人(すなわち対処法の二番、自分が変わるのがいやな人)
そもそも、環境を変えるという行為自体が最終手段である。基、自分と環境に違和がないことなどあり得ないから、家から出て世界に飛び出すいうことは、世界に合わせて自分を変えていくという作業である。そして可能な限り、自分を直接取り巻く限られた小さな環境だけは、自らの都合の良いように便宜少しずつ変えていく。例えば学校の教室で机の向きや椅子の角度を変えたり、好きな場所に座ったりということだが、これを通り越して教室ごとデザインを変えたいという希望は必ず通らない。基、経験の浅いうちは、環境に合わせるつもりがあっても、本当に自分とその環境が合わないのか、あるいは合わせられないのは単なる自分のわがままなのかどうかを判断するのは容易なことではない。環境を頻繁に変えてしまえばやめ癖がつくことを申し添えておく。だから、新しい環境に身を置いたらまず必要なのは、忍耐である。そしてどうしてもダメなら、環境を変えたほうが良い。これは正しいことである。
他、環境を変える人の中で特殊な例は、自ら環境を創成する人であろう。これは起業家とも言える。自分に合う環境がなければ作ってしまえというのは、ある種の極論である。もちろん、その手の道は道なき道だから、容易くはない。特に言うことはないが、まあ頑張れと言ったところだろう。当会における監督資格については関係ないので、特にこれ以上は物申さない。
以上、映画の会の監督資格についてを終わります。
感覚なき個性と偽物たち
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